ロードマップ
ドライブの記録
幕末から150年経った今も、人々を魅了し
真の英雄として語り継がれている坂本龍馬。
今回は都内から気軽に行ける横浜・横須賀で、
龍馬に関わりのある重要な人物を通してその魅力を探ってみました。
坂本龍馬(1835~1867)
政治家、実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中、海援隊を結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど志士として活動。33年という短い人生でありながら、日本中を旅また旅と突き進み、幕末という激動の時を日本の近代国家創りのために奔走した。ピストルを持ったりブーツを履いたりと、誰よりも新しいことが好きで常に世界に目を向けていた。

これは、異国と結託して長州を攻撃している幕府の不甲斐なさに対して、姉の乙女に宛てた手紙に書かれていたもの。龍馬は、討幕・佐幕などと、どちらか一方の味方になるという小さな視点はありませんでした。日本という大きな括りで何が最善か?を考えられる人物で、この後、困難とされた薩長を同盟させ「日本の洗濯」を成し遂げてしまいます。この大胆な行動と発想力が、今なお続く“龍馬人気”の理由なのでしょう。
「サムライX」マークXで、今回は幕末の時代を駆け抜ける勢いでドライブスタート。新しいマークXは、スポーティかつ高級感あふれ、2.5リッターの安定感のあるエンジンや品のいい内装が、走りにも乗り心地にも一本筋を通したイメージです。
出発地の港区芝を出て、10分ほど走ったJR田町駅付近第一京浜・芝5丁目信号の一帯は「旧薩摩藩蔵屋敷跡」でした。現在ここには「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地」の碑が建っています。かつてこの屋敷では1864年(慶応4年)3月官軍の江戸総攻撃前夜に、西郷隆盛と勝海舟が、江戸開城をめぐって会見を行ったとのこと。これにより江戸100万の民衆を悲惨な火から守るため無血開城を取り決めた場所です。
さらに斜め向かいのNEC本社ビルのある場所は「薩摩藩上屋敷跡」で、石碑が記されています。大河ドラマで人気だった「篤姫」も薩摩から江戸にやってきてからの2年間、この屋敷に住んでいたそうです。
オフィスビル街で見逃してしまいそうな石碑ですが、その時代背景には数々のエピソードが満載ですね。
西郷隆盛(1827~1877)
薩摩藩士で維新三傑の一人。「三傑」の残りの二人は、大久保利通、木戸孝允(桂 小五郎)。尊攘運動で活躍し薩長連合を結んだ。維新を主導したが明治になり征韓論に敗れ下野し、西南戦争を起こして敗れ、自決した。
龍馬と西郷隆盛の最初の出会いは1864年(元治元年)8月のこと。龍馬の神戸海軍操練所時代、勝海舟の紹介により西郷と面会しました。この時、龍馬は勝に「成程、西郷という奴は、わからぬ奴だ。少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で利口なら大きな利口だろう」と伝えたそうです。勝の方は「坂本は鑑識眼のある奴だ」と言っていたとか。そして西郷は龍馬について「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、今だかつて之を見ず。龍馬の度量や根底測るべからず」と評し、それぞれの度量を認め合い、後に明治維新への礎を育みはじめたのです。この時、龍馬は30歳、西郷は38歳、勝は45歳。
首都高から横浜横須賀道路を流れるように走り抜け、一路横浜へ。めざすは日本郵船歴史博物館です。ここは日本の海運史を紹介するミュージアム。龍馬の描いていた海運や貿易の世界に触れ、さらに龍馬の遺志を継いだ岩崎弥太郎の海運業の功績を見ることができます。
「大政奉還」が成立した頃、龍馬から大きな影響を受けた岩崎弥太郎は、龍馬の海援隊の活動を支援し、後に起業をして海運業を大成功させます。
当時を物語る貴重な展示物や資料はもちろん、精巧な帆船の模型なども必見です。また、日本郵船博物館が入っている横浜郵船ビルはコリント式の柱頭16本がポイントのギリシア神殿のような建物で、外見のレトロな雰囲気がとても素敵です。
岩崎弥太郎(1834~1885)
土佐藩出身、三菱財閥の創始者。藩命により開成館長崎出張所(土佐商会)にて通商業務に従事。土佐藩の組織であった海援隊の会計も見ていた。藩の業務を引き継九十九商会を経て三菱商会を創設し「東洋の海上王」と言われ、三菱汽船を発展させた。これにより三菱財閥の基礎を確立した。
龍馬と岩崎弥太郎は、いろは丸沈没事件、英国水平殺害事件などに対応し、難事を乗り切るために互いに知恵を出し合いました。当時の弥太郎の日記にはたびたび龍馬のことが記され、酒も酌み交わされていたことが書かれています。経済官僚として奔走する弥太郎と、好奇心旺盛で自由奔放な立場で政治改革を志向する龍馬。活動の内容は違っていましたが、常に計り知れない可能性を求めて“世界”を意識していたのは共通だったようです。また、弥太郎は、有事での龍馬の先を見通す能力と決断力とを少なからず自分の血肉として吸収したと言われています。その後、弥太郎の起こした三菱は世界的商社へと羽ばたくことになります。
ランチは奮発して龍馬の妻、お龍ゆかりの料亭へ。江戸時代後期1863年(文久3年)創業の「割烹 田中家」は、146年(2009年12月現在)の歴史がある老舗料亭です。お龍は1874年(明治7年)頃、龍馬が亡くなってから、西郷隆盛の紹介でここ田中家で2年間ほど仲居として働いていました。今も創業当時のまま残っている田中家のお座敷は、ここにお龍がいたことを想像するととても感慨深いものがあります。コースの中のひとつの「おりょう会席」は、お龍の好物だった食材と出身地の京野菜を組み合わせた献立になっています。たとえば、この日の献立で特徴的だったのは、京料理でおなじみの食材、粟麩と海老芋を取り入れた、椀盛りで「粟麩油煮 車海老葛叩き」と焚き合わせで「海老芋と公魚(ワカサギ)の揚出し」でした。但し季節により内容が変更になるそうです。
希望があれば、女将さんがお龍の話をはじめ数々の歴史に残るエピソードについて、当時の貴重な写真や資料と共に楽しく話をしてくれます。歴史ある個室で秀逸な料理を頂きながら、とても充実した贅沢な時間が過ごせます。ちなみに完全予約制ですので、事前の予約が必要です。
田中家は広重の「東海道五拾三次」にも描かれ、江戸時代から神奈川宿の宿場町で賑わいをみせていました。開国当時は、英語のメニューも用意され、外国からの賓客をきちんともてなすことができる料亭は田中家だけだったとか。従業員には英語やフランス語をいち早く学ばせ、接客の対応も万全だったそうです。その中に、お龍も仲居として働いていました。政財界の著名人や文化人も多数訪れるようになり、当時では一番の繁盛店として成長していきました。大きなダンスホールや、外国のVIPが泊まっても申し分のない宿泊設備も整え、浴槽の大きなタイル張りのローマ風呂やベッドの用意もされていたとのことです。
全盛期にはこの界隈に約58軒もの料亭が並んでいたそうですが、地域開発や交通網の発展により、徐々にその数は減り、現存しているのは田中家一軒のみ。田中家の規模も縮小されてしまいましたが、今となっては当時の面影を残す貴重な存在です。
お龍(1841~1906)
京都の医者の長女として生まれた。京都伏見の船宿寺田屋の養女だった時に龍馬と出会い、西郷隆盛の媒酌で1866年(慶応2年)に結婚。しかし翌年1月15日、京都河原町通りの近江屋で龍馬が暗殺され、二人の結婚生活は1年10ヶ月で終わった。
当時、お龍は英語もフランス語も話せて月琴も弾けた上、外国人の接客でも物怖じしない性格だったため、特に外国人の接待には重宝されました。また、尾頭付きのお刺身を出していたところ、外国人が「魚の頭付きの料理が気持ち悪い」というので、お龍のアドバイスで刺身だけを出すようにしたら大変喜ばれたと、いう逸話も残っています。
横浜から横須賀へ走ること約1時間。龍馬の妻、お龍のお墓へ。住宅街の中にある信楽寺は、とても手入れが行き届いていて厳かな雰囲気が伝わります。龍馬亡き後、お龍は土佐の坂本家に身を寄せましたが定住はせず、京都、大阪、東京と流転の生活を送り、ここ横須賀でその生涯を終えました。
信楽寺にあるこの墓には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と記されています。また、本堂の中には、「いつでもお寺にみえた方が、龍馬とお龍と対話できるように」というご住職のお心遣いで、よこすか龍馬会の方々が奉納した龍馬とお龍の木彫座像が見られるようになっています。この他にも、熱烈な龍馬ファンによる龍馬やお龍の肖像画などが飾られていて、お寺へ行くと言うよりも記念館に行くような楽しさがありました。
1866年(慶応2年)1月24日深夜、龍馬が贔屓にしていた船宿、寺田屋でのこと。伏見奉行配下の幕府の役人が龍馬たちに襲いかかりましたが、入浴中だったお龍が襲撃を察知し、半裸のまま階段を駆け上がり龍馬たちに知らせ九死に一生を得たのでした。龍馬は怪我をして療養生活を必要としましたが、この時のお龍の献身的な介抱が夫婦になるきっかけとも言われています。龍馬はお龍について「家事は何一つできないが月琴を弾く、面白い女性だ」と手紙に書いています。また、龍馬とお龍はこの後、西郷隆盛の招きで湯治を兼ねて鹿児島へ行くことにしましたが、後にこれが日本で初めての新婚旅行とも言われています。
浦賀港の海岸線沿いを走りながら、勝海舟が断食修行をした叶神社へ。ナビの最短距離コースでは海岸沿いルートは提示されないのですが、フェリーなどの大型船が行き交うのを見ながらドライブできるとなると、ちょっと遠回りをしてもこちらがおすすめです。
さて、叶神社は1859年(安政6年)遣米使節の護衛艦・咸臨丸の艦長となった勝海舟が、ここの井戸で身を浄め、山頂で断食をして航海の安全を祈願したと伝えられています。勝海舟が使った井戸や断食修行の際に使用した法衣なども保存されています。航海に出かける時、妻には「ちょっと品川へ船を見に行ってくる」とだけ言ったそうです。境内を抜け、約200段ある階段を上ると「勝海舟断食之跡」という碑があります。横須賀風物百選にも選ばれている叶神社の頂上に当たる明神山からの景色も素晴らしく、眼下には東京湾が広がっています。
勝海舟(1823~1899)
幕臣。長崎海軍伝習所で学び、1860年(万延元年)には咸臨丸艦長として渡米。1862年(文久2年)に軍艦奉行並となる。神戸海軍操練所を発足させ軍艦奉行に就任。戊辰戦争の際は、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城に尽力した。龍馬の良き師匠。
1862年(文久2年)10月、去る3月に土佐を脱藩した龍馬(当時28歳)が、小千葉道場の師範代・千葉重太郎(同39歳)と共に勝海舟(同40歳)の自宅を初めて訪問した時のこと。龍馬は最初、勝の持論を暴論であると抗議して殺そうとしていたとか。そこで勝はいきなり自分を殺す事などをせず、まず議論をすべきである、と諭しました。さらに勝は二人に地球儀を見せて小さな日本を示し、国力があれば攘夷も意味があるが、欧米を相手に勝算がないという持論をぶつけました。また自らの渡米経験で得た西洋文明を説いたと言うことです。すかさず、龍馬は弟子になることを懇願し、勝と龍馬の師弟関係が始まり、以来龍馬の運命を大きく変えることになりました。
ペリーが初めて上陸した久里浜海岸の目の前は、現在は公園として整備され、米友協会が建立した大きな記念碑があります。公園内にあるペリー記念館には黒船来航に関する歴史的資料や黒船4隻の模型などが展示されています。また当時の黒船のことを伝える絵巻物や瓦版などで人々の驚きの様子がよくわかり、またペリーの故郷の米国にいる自分の娘に宛てた手紙などの貴重なものもあり、興味は尽きません。

マシュー・ペリー(1794~1858)
米国海軍の軍人。1853年(嘉永6年)に米国大統領の親書を携え艦隊を率いて来航し、翌年日米和親条約を締結。これにより長い鎖国がついに開国へと向かった。
1853年(嘉永6年)ペリー初来航を契機に日本は大きく変わり始めました。偶然が重なったのでしょうか?世間の常識に捉われない快男児・坂本龍馬が初めて江戸に上京してきたのは19歳のこの時。好奇心旺盛な年頃に、土佐藩臨時御用に借り出され、品川の浜川砲台で警備につくことになり、黒船に遭遇しました。その日はワシントン記念日で6隻の軍艦から合計126発の祝砲が撃たれていたので、その光景を見た龍馬はさぞや興奮したことでしょう。翌年ペリーが再来航した時は、龍馬は黒船を見て「まっこと、黒船は桂浜で見る鯨より大きいのぉ」と述べたとか…。幼い頃から土佐の海を行き来する船は見ていましたが、この黒船の大きさは想像をはるかに超えていたようです。
横須賀から約2時間30分、幕末と龍馬の足跡を訪ねるドライブを締めくくるのにふさわしい、伝統と格式のある温泉旅館で一泊します。この地で約380年。箱根湯本屈指の老舗宿と言われ、ホテル・旅館建築の初の重要文化財にも指定されている伝統ある温泉旅館、萬翠楼 福住。伊藤博文、木戸孝允、井上馨など明治維新の重要人物が滞在し、当時の外務大臣だった井上馨は、ドイツとの条約を作成するため貸切で使っていたこともあるそうです。旧館は、明治初期に建築された「擬洋風建築」と呼ばれる様式のもので、文明開化の時代を反映し、日本建築の伝統の上に洋風の装いを施した、和と洋が調和した建物です。贅を尽くした銘木と、随所に施された職人技が、当時の趣のまま残され、文明開化の雰囲気を味わうことができます。
穏健派で龍馬も一目置いた、長州の志士・木戸孝允(桂小五郎) が名付けた「萬翠楼」。旅館のロビーには現在も孝允が書いた「萬翆楼」の額が飾られています。この他にもさまざまな偉人たちの書が各所に日常的に飾られています。また、温泉も箱根湯本でも2本しかない自噴式の源泉を所有しているため、豊富な湯量の温泉を堪能できます。
木戸孝允(桂 小五郎)(1833~1877)
長州藩士であり、後に政治家。吉田松陰の弟子となり松下村塾で学ぶ。維新三傑の一人として西郷・大久保らと薩長連合を結び、討幕運動に活躍した。新政府では参与・参議となり、版籍奉還・廃藩置県に尽力した。西南戦争の最中に病死した。
長州では過激な行動をする志士が多かったようですが、独自路線を貫いた穏健派の桂小五郎は、幕末を冷静に見つめ行動していたようです。龍馬はそんな桂小五郎のことを家族に書いた手紙に「当時長州に人物なしといえども、桂小五郎なる者あり」と書き、無用な争いをしない態度に感服していました。この後、龍馬を介して、西郷隆盛と木戸と改名した桂小五郎で薩長同盟を締結。この時も薩摩、長州とも自縛のメンツにこだわり暗礁に乗り上げたかに見えましたが、龍馬の説得と交渉術で見事、良法へと導くことになりました。
※本特集における調査・取材は2009年12月に行ったものです。掲載する住所・金額などの情報については2009年12月現在の情報となります。
※参考資料:文藝春秋増刊くりま「坂本龍馬がゆく」、交通タイムス社「龍馬旅」
2月といえば節分。
「鬼は〜外。福は〜内」・・・あれ?豆を投げつけられた鬼が怒って、あなたに向かって突進してきてました!! 逃げて~!!
目の前に4台のクルマが!どの車にのって逃げます?
試乗の感想
ドライバーのコメント
ひと目でアッパークラスというイメージが伝わる力強いボディデザイン。特にフロントのエッジの効いたフェイスラインがいいですね。カラダがしっくりとなじむドライバーズシートにモダンで上質なインテリア。どこを切り取ってもプレミアムな印象でした。
今回のマークXは2.5リッターモデルでしたが、そのパフォーマンスは高速道路の追い越し加速、余裕でこなす坂道の走りなど、ドライブすることの恍惚感が十分に得られました。
同乗者のコメント
助手席で同乗しているのに、リビングルームのソファでくつろいでいる感じです。今回はオプションでフロントのインパネに装着されていたツィーター・スピーカーセットの「スーペリアサウンドパッケージ」がとても高音質でドライブを素敵に演出してくれました。景色も良く音楽を楽しみながらのドライブは、何にも変えがたい贅沢な時間を提供してくれます。マークX全体が格好良くスタイリッシュなデザインなので、「おしゃれをして乗りたい!」クルマだと思いました。